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1 2011年 03月 21日
飛行機に乗って席に着いた瞬間、疲れと安心からか即寝てしまい、地元の空港についたのが19:00頃。空港は珍しく混雑していて東京へ向かう便は欠航、私の乗った便以降の東京から来る便も欠航しているようでした。なんとか家にたどり着くと、父親が驚いた様子で「さっきG-mailに今空港ってメールが入ったから、今日帰れるのか心配してたんや。」と言われました。そこまで深刻ではなかろうと思っていた電話を入れる前に、Xperiaで父親へg-mailを送っていたのが、何時間かの差で届いたようです。また、会社の同僚数人から「大丈夫?」「こちらは徒歩で帰ることになりそうです」といった携帯メールが届いたのにも大変時間差がありました。
この一件で、非常時に連絡がとりやすいのは自分の体験からはこうなりました。↓ twitter(私が使っているのはandroidのtwidroydというアプリ)>公衆電話(ただし相手が固定電話/被災地ではない場合)>G-MAIL>携帯メール>携帯電話 また、SKYPEも繋がりやすかったと聞いています。たまたま年始にスマートフォンのxperiaに変えていたので、ネットが繋がりやすかったのですが、i-modeは繋がりにくかったと後で聞きました。おそらく、以前使っていた通常の携帯をそのまま継続して使っていたら、不安で仕方が無かったと思います。地震があった直後から私はいつもの癖でtwitterを覗いて、仲のいい方たちの安否を確認できていました。東京の家のご近所さんが谷根千では大事はおこっていないというつぶやきもありました。 実家でお通夜やお葬式の話はそこそこに、家族はテレビの地震の報道をかじり付くように見ていました。 ■
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by monotocoro
| 2011-03-21 02:09
| もの-住
2011年 03月 19日
ここ数ヶ月、忙しい時間にかまけて色々書きたいことが流れていきました。3.11の東北大地震から、それまでとは明らかに時間と生活に変化があり、この今を、書き留めておききたいと思います。
3.11の地震のとき、ちょうど私は羽田空港にいました。その日の早朝に実家で同居していた祖母が亡くなったと連絡があり四国の実家に向かっていたのです。奇しくも、その前の週にもう一人の祖母が亡くなり実家に帰ったばかりで、母親が疲れ果てて入院中で、仕事にいつ復帰できるか不明だったので朝一度会社に行って、諸々引き継げるものは引き継いで、会社のパソコンを持って、空港に向かったのでした。 14:55のフライトで、14:10頃に空港に到着。朝から何も食べていなかったのでフードコートで軽く昼食。チケットレスでチェックインして、乗客と本数の少ない地元行き飛行機は一番遠い搭乗口が常なので、長々と歩いて14:40頃に搭乗口に到着。既に優先者のみ搭乗中。席も後ろの方だったので、窓際のテレビの真ん前の待ち合い席にて搭乗を待っていた時に、地震が発生しました。 つい2、3日前に会社でいた時に大きめの地震があったので、最初はまたか、と思ったのですが、揺れる時間が長くて大きい。ガラスは危険だと感じ、窓際の席から離れて近くの大きな柱の傍に立っていると、搭乗口の電光掲示板がユッサユッサと揺れ、飛行機へと続く搭乗通路もグルグル回って見え、上から埃かなにかが落ちてきて目に入りました。周りの人はほぼ待ち合い席に座っていて、騒ぐでもなくただ動揺している様子。立っているのもつらい、と感じた時に揺れは止まりました。近くの売店ではコードの長い照明がブランブランと揺れていました。 点検の為に飛行機の出発が遅れるとのアナウンスがあり、目が痛いと思いながら窓際の席からひとつ中よりに座り、震度を確認しようとテレビを見ました。NHKでした。すぐに通常の放送から切り替わって、震源地と震度の速報と共に、大津波が来るという情報が流れていました。 最初は仙台や岩手の情報のためかピンと来ず、「大きい地震やったなあ。」と地元の方言での会話がのんびり聞こえてきました。ところがお台場の火事の様子が流れ始め、都内で人が広場に避難している様子が流れ始め、テレビの周りに人が集まってきました。その間おそらく15分位。 その前週に父親と話していた時に「爺さんが亡くなって、阪神大震災に○○(兄)があった16年前とおんなじ位、今年は家族の一大事が起きてるんや。」と言っていたのが頭をよぎりました。16年前、兄は神戸に住んでいて被災し住んでいた下宿が全壊、大阪まで歩いて行きやっと家族に連絡が入ったのでした。その日は実家も結構揺れて、早朝だったので私は一度起きてまた寝て、いつもの時間に起きると、テレビの前に父親が立ち尽くしていて、母親が何度も電話をかけては切っていた光景は忘れることができません。 親が心配してるな、と思い携帯で電話をかけようとしたのですが、全く使用できず。ニュースは都内での火事や住宅倒壊の速報。更にどこかの漁港の市場にあっという間に水が入っていき、車がプカプカ浮き始め、どこかの川が逆流して車が必死で逃げている様子が流れました。NHKの画面では信じられない位、車がどんどん流されていました。もう一度携帯を掛けるが全く使用不可、年末年始のアケオメメールを送る時のような具合。空港のアナウンスも点検中と進展なし。仕方が無いので、公衆電話を探しにテレビの前の特等席を立ち上がりました。 公衆電話は幸い空港だったのですぐ見つかり数人の列が出来ていました。100円玉を入れて、実家にかけると父親が出て「電話を何度も掛けたけど、あかんかった。大丈夫か?」とのこと。やはり心配していたと思い「飛行機が何時に出るかわからんけど、多分今日中には帰れると思う。」と伝えて、他の便はどうなってるか気になり、空港の中をパトロールしてみることにしました。 ところどころ、白い粉と土のかたまりのようなものが落ちていました。これがさっき目に入ったのか、と思いぞっとしました。空港の滑走路に津波が来たらどうしようと思い、違う搭乗口から外を見ました。するとANAは飛んでいる様子。少しほっとして、テレビの席に戻ると既に占拠されており、仕方が無いので本を読みながら2時間程待っていると搭乗開始のアナウンスが開始されました。 ■
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by monotocoro
| 2011-03-19 02:38
| もの-住
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